美術に出会う前の美術
岩崎 清/日本ブルーノ・ムナーリ協会 代表
ブルーノ・ムナーリ/芸術家・デザイナー・教育者
(Bruno Munari 1907-1998)

自然体験からアートへの第一歩
-美育文化ポケット42号 番外編-

ブルーノ・ムナーリは1907年10月24日、イタリア北部、ロンバルディア州のミラノに生まれた。6歳なった年、両親が隣の州のヴェネト州にあるバディア・ポレジネで旅館を営むことになったため、ミラノを離れた。その後、18歳までこの町で過ごすことになった。バディア・ポレジネは、イタリア最大の河川であるポー川の支流アディジェ川に沿った川州の町であった。

アルド・タンキスの『ブルーノ・ムナーリ』によれば、ムナーリは、宿屋を営む両親を手伝うため、宿泊客が帰った後の部屋の掃除、ベッドメーキング、客の受け入れ、夕食の準備、配膳、後片け、翌朝の食事の準備、その後片付け……と、休む暇もなく旅館の仕事に追い回される毎日を過ごしていた。そんな日々がこれからも続くと思うと、行先がどうなるのか、暗澹とした気持ちになっていたという。

そうした中でも、ムナーリは暇を見つけると、友人たちとアディジェ川の川州に遊びに行ったものだった。若き日のムナーリは、この川州での経験を「わが幼き日の機械」という短いエッセイに書き止めている。

この文章は、ムナーリの『職業としの芸術』(1967年)の巻末に付録として収められている。本書の内容は、ムナーリが、ミラノの新聞に一般市民に向けて、絵画や彫刻、デザインやピクトグラム、機械や運動、絵本などについて書いた啓発的な文章まとめたものであるが、ムナーリは、この「わが幼き日の機械」の末尾に、1924年と記している。

ということは、バディア・ポレジネを離れ、ミラノ戻ることになる、1925年の一年前の年であり、ムナーリが17歳のときの文章であることがわかる。

ここで、筆者がこのエッセイを取り上げるのは、次の理由からである。文章は短いものの、自然に対するムナーリの新鮮な感受性と洞察力、それを言語として書き表す表現力に満ち溢れていて、ムナーリのアーティストとしての将来を予兆するものが潜在しているからである。

このエッセイの冒頭を、解説も交えてご紹介しよう。

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午後の早い時間に、友だちと連れ立ってアディジェ川の川州に遊びに行ったものだった。

太陽が照りつける埃っぽい道を行くと、突然巨大な堤防に突き当たる。右を見ても左を見ても、水平線は遮られ、見えるものといえば、堤防だけであった。

この大地の盛り上がり(ムナーリは、堤防をそう呼んでいる)を一気に駆け上る。眼下に広がるアディジェ川の光景に息を呑む。

滔々と流れる水量豊かなアディジェ川の岸辺には、桟橋でつながれた筏の上には古びた水車小屋があり、その脇には(ムナーリが《機械》と呼ぶ)水車が回っている。

大地の盛り上がりを駆け降りると、一気に桟橋をわたり、水車小屋がある筏に飛び乗る。
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筏の上で、友人たちが水鳥に投石したり、水車小屋の周りをかけずり回ったりして遊んでいる一方、ムナーリは、休みなく回転する《機械》の動き、機械が川底からすくい上げる水、太陽の光のもとで輝く水草などを注意深く観察したものだった。アディジェ川は、あちこちに危険な渦巻きを起こしながら、水鳥の羽根、猫の死骸など不可思議な事物をどこからともなく運んできて、どこかへと流していく。ムナーリは、それらを自然が営む景観的劇場=スペクタクルと呼んでいる。

筆者は、アディジェ川の遊びと水車小屋=機械の体験こそが、ムナーリのアーティストとしての源流を示すものだと考える。

次号ではミラノに戻ったムナーリが、未来派のアーティストたちと出会い、その活動に参加していく、そのあたりを言及することになるだろう。